二〇世紀ひみつ基地

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1970年代初頭「スマイルマーク」大ブーム

愛と平和のシンボル・スマイルマーク

ラブピース新聞広告
昭和46(1971)年12月 新聞広告

秋田市大町二丁目「秋田名店街」と広小路「秋田プラザ」(現・秋田キャッスルホテル)二階に店舗があった「文具のマルシン」が広告するグッズは、70年代初めに大ブームとなった「ラブ ピース」。

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マルシンホームページへようこそ

泥沼化するベトナム戦争にともなう厭戦ムードがただよう米国で、“愛と平和のシンボル”として親しまれた、黄色に笑顔がデザインされた「スマイルマーク」は、日本では「ニコニコマーク」「ニコちゃんマーク」などと呼ばれ、バッジを初めとして、さまざまな商品が発売された。

そのブームに便乗して、デザインが微妙に異なる類似商品も数多く登場。秋田では「たけや製パン」が、「スマイルマーク」をデコレーションした菓子パンを発売。

たけや製パン
昭和47(1972)年7月 新聞広告

少年マガジン
昭和47(1972)年

「ラブ ピース」が表紙となった『週刊少年マガジン』。この年の1月、グアムで発見され、28年ぶりに帰国した元日本兵・横井庄一の特集号だ。

「サンスター文具」から販売された「ラブ ピース」の特徴は、左右非対称の手描きで、垂れ目のなかに白い点があること。

カード類を主力商品とする文具メーカー「リリック」に勤務していた峰与志郎氏が原画を制作。

昭和45(1970)年、ニューヨークで開催されたステーショナリーショーに出向いた峰氏は、「スマイルマーク」がプリントされた商品が、各社から出品されているのを見て興味を抱く。

商品化するには版権者と契約しなければならないが、出展者に聞いて回ったところ、各社が自由に使っているという。そのため、デザインは各社で微妙に異なっていた。

峰氏は日本で商品化するにあたり、米国の既製品をベースにデザインを描き起こし、のちに「ラブ ピース」の名で意匠および商標を登録する。

昭和45(1970)年8月、「文具・紙製品見本市」に「ラブ ピース」商品を試験的に出品し好評を得た「リリック」は、「サンスター文具」と共同企画で商品を開発、同年10月、共同発表会を開き小売店にアピール。

キーホルダー、貯金箱、下敷き、筆入れ、ワッペン、バッヂ、ペーパーバック、Tシャツ、等々、「ラブ ピース」ブランド商品が発売されると、たちまち人気をあつめ、やがて類似品も市場にあふれる。

他業界からも参加を希望する声が相次ぎ、昭和46(1971)年3月「ラブ ピース・アソシエーション」を結成。参加企業からの会費は、共同広告費と身障者のチャリティーにあてられた。

参加企業の一例を挙げると、「タカラ」「ぺんてる」「サクラクレパス」「赤ちゃん本舗」「プラチナ万年筆」「コーリン鉛筆」「岡本理研ゴム」など。

「スマイルマーク」のブームは、昭和46(1971)年から47年がピークで、徐々に沈静化してゆくが、80年代末にブームが再燃。平成20(2008)年には、ファッション業界を中心に再びの復活を見る。
 

スマイルマークの創作者は誰?

Smileyface
平成9(1997)年2月 新聞広告

 平成9(1997)年2月、『日本経済新聞』に、それまでパブリック・ドメイン※で「スマイルマーク」を使っていた業界にとって衝撃的な全面広告が掲載される。

※「パブリック・ドメイン」知的財産権が発生しない、社会全体の公共財産

私たちを、よろしく!
スマイルマークは登録商標です。私を勝手に使わないで!

(株)○○○○○は、スマイルマークの著作権利者である Franklin Loufrani 氏と独占的総合代理店契約を交わしました。従って今後、日本においてスマイルマークを使用する場合は、 Franklin Loufrani 氏及弊社の事前承認が必要となります。

スマイルマークは、ヴェトナム戦争など暗いニュースが世界中を覆っていた頃に Franklin Loufrani 氏が『少しでも明るいニュースを提供して欲しい』と新聞社にかけあい、明るい記事にはスマイルマークをつけたのがそもそもの始まりです。いまでは、すっかり世界中の人気者となっていますが、’72年には Franklin Loufrani 氏が地元フランスを初めヨーロッパ各国に商標登録を行っている、れっきとした版権なのです。この度、○○○○○は Franklin Loufrani 氏と独占的総合代理店契約を締結、日本におけるスマイルマークの版権管理業務を行うことになりました。衣料品はもとより食品、雑貨からコマーシャル、出版、放送にいたるまで全ての分野について管理の対象となります。

この新聞広告に反応して、国内数社が契約を交わしたのだが……

笑っている場合じゃない
スマイルマークに著作権!?

突然使用料を主張 拒否する社も

 反戦や平和の象徴とされ、1970年代初めに日本でも大流行した「スマイルマーク」。このマークについて東京の業者が「著作権を持ったフランス人がいる」と主張、代理店と称して使用料を集め始めた。「72年に初めてフランスの新聞に発表された」のだという。もっと早くから流行しているとして疑問視する声もあるが、著作権には登録制度がないため、争いになると法廷でなければ決着がつかない。笑顔のマークをめぐる著作権ビジネスの波紋が広がっている。

 ことの始まりは今年2月11日付けの日本経済新聞。「スマイルマークは登録商標です。勝手に使わないで」という全面広告が掲載された。
 キャラクターの商品化権を扱う○○○○○社(東京都台東区、○○○社長)が出した広告で、同社は「フランス人の著作権者と独占的総合代理店契約を交わした」として、「日本でも当社が版権を管理する」と宣言した。そのフランス人が新聞記者だった72年1月、暗い世相を乗り切るためのキャンペーン記事で使ったのが、スマイルマークの始まりなのだという。
 ある雑貨メーカーはこの広告を見て、マークを使った商品の売り上げの数パーセントを支払う契約を交わした。契約を結んだ理由について「あれだけ知られたマークに著作権があるのかと疑問は感じたが、大上段の広告なので信じた。否定する材料を集めるのは大変だし、裁判は企業イメージに傷がつく」と説明する。
 ○○○○○社によると、すでに国内の計35社と同様の契約を交わし、今年度約3千万円の使用料収入を見込んでいる。
 一方、衣料品などの分野で、すでにこのマークを商標登録していた下着メーカーのグンゼ(本社・大阪市)は、無断使用という○○○○○社の指摘を「あんな単純なマークが著作物なら人間の顔もかけなくなる」とはねつけた。
 このスマイルマーク、実は○○○○○社が「初物」と主張する72年より前の71年末、すでに新聞や雑誌で、日本やアメリカでの流行ぶりが大きく取り上げられている。 
 「あのマークは日本では、ラヴ・ピースと呼ばれていた。 口の線が微妙にまっすぐでないのは、私が筆で書いて商品化したからだ」。文具メーカー元部長の峰与志彦さん(64)は、そう証言する。
 峰さんによると、70年にニューヨークの文具ショーでマークを実際に見て、自由・反戦のシンボルとしてひかれたという。
 出展者に聞いても権利者はいないと言われたため、峰さんの会社が70年にマークを商品化。71年10月には業界をあげたキャンペーンに発展した。
 こうした疑問に対して○○○○○社の○○社長は「スマイルマークを再び流行させたいと著作権者を探したところ、あのフランス人が見つかった。 米国ではベトナム戦争終結前後に自然発生的に流行したようだが、自分が考案したという人は見つからなかった。第三者による著作権の認定があるかとなると微妙だが、根拠はあると考える」と反論する。
 同社はいま、代理店としてマークの商標登録を特許庁に出願中だ。「著作権」に決着が付かなくても、商標が認められれば、マークの使用料を請求できることになる。

昭和52(1977)年『朝日新聞』

「スマイルマーク」の創作者および著作権者を主張するフランス人フランクリン・ルフラーニ氏によれば、昭和47(1972)年、フランスの大衆紙『フランス・ソワール』誌上に、「このマークが掲載されているページは明るい話題を提供しています」とアピールするアイキャッチ・マークとして1971(昭和46)年に創作したと主張。

しかし、60年代末にはすでに米国で流行しており、昭和45(1970)年には日本で製品化されているため、ルフラーニ氏が創作者ではないことはあきらか。

上に引用した記事に対して、ルフラーニ氏の国内代理人が『朝日新聞』に抗議して紛争となり、同時に「詐欺ビジネス的である」と放送した「FM東京」を相手取り「損害賠償請求」を行うが、平成12(2000)年1月、最高裁は「このフランス人はスマイルマークの創作者でも著作権者でもない」として、国内代理人の訴えを退ける判決を下した。

関連リンク
ハーベイ・ボール・ワールド・スマイル財団/スマイルマーク訴訟


スマイルマークの生みの親?ハーベイ・ボール氏

ここで真打ちとして登場するのが、米国でスマイリーフェイス(スマイルマーク)の創作者として公認されている商業デザイナー ハーベイ・ボール氏(1921~2001)。

昭和38(1963)年、マサチューセッツ州ウスター市の「ステート生命保険」とオハイオの小さな保険会社が合併するにあたり、従業員同士の関係を改善する「フレンドシップ・キャンペーン」の一環として、明るいシンボルをデザインして欲しいとの依頼を受けたポール氏は、黄色に笑顔のマークを創作、100個のバッヂが作成された。

氏がデザインした「スマイルマーク」は、従業員ばかりではなく顧客にも好評を得、やがて町の至る所に笑顔のマークがみられるようになったという。

1998年8月3日付「PEOPLE誌」記事

Smileyface

ライバルのフランス人の主張も、世界に「ハッピー・フェイス」を送り出したアメリカのデザイナーの喜びを奪うことは出来ない。

去る1963年、グラフィック・デザイナーの「ハーベイ・ボール」氏はマサチューセッツ州ウスター市の「ステート生命保険」から、従業員のモラル向上の為に明るいマークを創作して欲しいとの依頼を受けた。現在77歳のボール氏は2つの目と曲がった口を描き、黄色で彩った。「完成まで数分しか掛かりませんでした」とボール氏は当時を思い出す。

「ハッピー・フェイス」はこのようにして誕生した。ボール氏は報酬としてたったの45ドルしか受け取っておらず、「ステート生命保険」はこのマークを商標として登録しなかった。70年代初頭には世界中の会社により、彼の明るいマークが下着から灰皿に至るまでどこにでも付けられるようになっていた。ボール氏はその様子を何十年間も静かに見守っていた。しかし今年になって、ボール氏はフランスのビジネスマン「□□□□(○○○○)」氏が「自分が1971年にほぼ同一のマークを独自に創作した」と主張し、世界80ヵ国でこの有名なマークの商標登録を行った事を知った。ボール氏は、「彼がアメリカにやってきて、自分の創作だということは迷惑です」「スマイル・フェイスを金儲けに利用し、世界的な支配を押し進めている事にも反対です」と語った。

一方、現在55歳の□□□□氏は「ボール氏がスマイリー・フェイスをデザインした事が事実だとしても、自分は全く気にしない」「私は誰が商標を所有しているか(自分自身である)ということにしか関心を持っていない」「自分達の仕事は宣伝する事と、商標を所有する事と、商売として成功させる事だからだ。」と語った。

ウスター市に75歳の妻ウィニフレッドと4人の子供と共に住んでいるボール氏の望みは、これまでの記録の誤りを訂正する事だけである。第二次世界大戦中、彼は何とか沖縄での日本人の砲撃の中を生き延びた。「戦争が起こって周りにいる人が殺されたら、人間の価値観というものは基本に戻ります。『生きている』という風に」彼は語り、更に続けた。「私は全世界にスマイルを広めたのです」

ハーベイ・ボール・ワールド・スマイル財団/PEOPLE誌記事より

Smileyface
 Harvey Ball World Smile Foundation

 ハーベイ・ボール氏没後、その子息を中心にアメリカ連邦政府、マサチューセッツ州ウスター市が共同で「ハーベイ・ボール・ワールド・スマイル財団」が設立された。 

一方、 ハーベイ・ボール氏とライバル関係にあったフランクリン・ルフラーニ氏が設立したスマイリーワールド社は、今も「スマイルマーク」を使ったビジネスを継続している(下記関連リンク参照)。

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ハーベイ・ボール - Wikipedia
スマイリーフェイス - Wikipedia
スマイルで日本を元気に/ハーベイ・ボール・ワールド・スマイル財団
WORLD SMILE DAY

Smiley Clothing | Smiley Face Clothes Store
フランクリン・ルフラーニ氏によるキャラクター・ブランド「スマイリー」

| 昭和ノスタルヂア・秋田 | 21:00 | comments:1 | trackbacks:0 | TOP↑

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1972・秋田初のドーナツ専門店オープン・たけや製パン

ロッキードーナツ
1972.02 新聞広告

昭和47年(1972)2月、秋田駅前、千秋久保田町に秋田初のドーナツ専門店「ロッキードーナツ店」オープン。

「ロッキードーナツ」は一見、全国展開するチェーン店のように見えるが、経営していたのは地元の「たけや製パン」であった。

ロッキードーナツ
1972.02 新聞広告

昭和45年(1970)本場アメリカから「ダンキンドーナツ」が日本進出を果たしたのを皮切りに、昭和46年(1971)大阪に「ミスタードーナツ」日本1号店がオープン。日本に本格的ドーナツ・ブームが到来する。

ブームに乗って開店した「ロッキードーナツ店」は、ナウなヤングの心をつかみ、当初は大盛況。

ロッキードーナツ
1972.02 新聞広告

ロッキードーナツ
1972.04 新聞広告

ロッキードーナツ
1972.07 新聞広告

昭和47年(1972)7月、「ロッキードーナツ」を、金座街の「レアルたけや」内に移転、秋田初のドーナツ専門店は、わずか数ヶ月で消滅。移転とはいえ、事実上の撤退であった。

この年の10月、秋田駅前「鎌田会館」一階に、東北・北海道地区で初の「ミスタードーナツ」秋田ショップが華々しくオープンする。

「ロッキードーナツ」の早すぎる撤退は、ミスド秋田進出を聞きおよび、太刀打ちできないことを悟った末の決断だったのかもしれない。

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レアルたけや
1971 新聞広告

レアルたけや
金座街・中央通り角「レアルたけや」

昭和45年(1970)金座街・中央通り角の菓子販売店「丸丹」跡に、「たけや製パン」が、高級和洋菓子・ペストリーなどを直販するベーカリー「レアルたけや」を創業。二階は喫茶店「コーヒー茶房(さぼう)」。

昭和55年(1980)11月「イトーヨーカドー」を核テナントとする「秋田ショッピングセンター」オープン。「レアルたけや」は地下一階に入居する。

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たけや製パン
1972.05 新聞広告

「ロッキードーナツ」のロゴマークと同様、星条旗をあしらったパッケージ。

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豆専門店「鈴和」監修あんパン・たけや製パン



スーパーで85円で購入した、たけや製パンのあんパンをかじりながら、なにげなくそのパッケージを見ると「小豆の鈴和監修」の文字が・・・。
豆の老舗鈴和商店が 特別に炊いた特製こしあんを 使用した高級あんぱんです。
一般のあんパンとくらべて、特においしいわけでもなく、ごく普通の味だと感じたのは、安価だったのと、食べている途中で「小豆の鈴和監修」の表記に気づいたからだろう。最初からそれを意識して食べていたら、もっとおいしく感じたはず。

味覚は、価格・ブランドなどのイメージ、いわゆる先入観にも大きく左右される。人の味覚・感覚なんてしょせんそんなもので、あまりあてにはならない。

こしあんに比べてごまかしがきかない粒あんならば違いがわかりやすかったと思う。

あんパンに使われているあんこは、生産地を明記していないかぎり、そのほとんどが中国製というから、なにはともあれ「北海道あずき」の表記には一応の安心感がある。ちなみに、鈴和商店でも中国製の業務用あんこをあつかっている。


2004.12 鈴和商店

秋田市民市場近くの「鈴和商店」は、主力商品の豆類のほか、冬期間店頭で製造販売する「きりたんぽ」の焼き上がりにも定評がある。

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「本荘ハムフライ」&「たけや製パン」B級コラボ



カレーパンのような揚げパン(ドーナツ)で、ソース味のハムフライを包んだ「本荘ハムフライドーナツ」は、由利本荘市のB級グルメ「本荘ハムフライ」と「たけや製パン」とのコラボ商品。



ハムフライをパンで包んでさらにフライにするという、アゲアゲなしつこさが、いかにもB級っぽい。少々高価だがほどほどの食べ応えもある。

ハムフライは揚げたてを熱いうちに食べるのがいちばん。このパンも軽くレンジで温めるとおいしさが増す。

油っぽくて手が汚れやすく、パン粉がパラパラと散らかるカレーパンは、実はあまり好みではない。B級感は薄らぐが、揚げパンではなくハンバーガー用パンに挟んだほうがベストマッチだと思っていたところ、さっそく第二弾コラボ商品として「フレッシュランチ本荘ハムフライ」が発売されていた。

「フレッシュランチ」は、耳を切り落とした食パンにジャムやクリーム、または惣菜などの具を封入したサンドイッチのラインアップ。本家の山崎製パンではこれを「ランチパック」の商標で展開している。

「フレッシュランチ本荘ハムフライ」は1パックに2枚入りで、それぞれ1枚のハムフライにソースがからまっているのだが、「本荘ハムフライドーナツ」の内容とくらべて直径が小さく薄っぺら。ボリュウムと食べ応えの点から言えば、2枚重ねでがっつりとした、ハムフライ本来の醍醐味を味わえる前者に軍配が上がる。

たけやの地産地消シリーズといえば、昨春発売の(2010年)「ヤマキウ秋田味噌」とのコラボ商品「みそっこシリーズ」は、味噌饅頭がまだ残っているようだが、その他はもうすっかり見ることがなくなった。

最近では「秋田いなふく米菓」の「ぬれおかき」の醤油ダレを使った菓子パンや、これは地産地消とは関係ないが、開園60周年を迎えた大森山動物園とコラボして、動物をかたどった「大森山動物園の仲間たち」シリーズもあるが、この手の共同開発商品が定着しロングセラーとなる確率はきわめて低い。

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ラジPAL日記「人気動物がパンになっちゃった!」ABS秋田放送

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